マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

オーストラリア パームアイランド

パームアイランド(Palm Island)が何処にあるのかご存知ですか?オセアニア州オーストラリア大陸の東北部、Great Barrier Reefの海に浮かんでいる島です。北Queensland州に属していて、首都のTownsvilleの東北部約65kmの海に位置しています。面積は64平方km、人口3,500で、Townsvilleからフェリーで15分、飛行機で2時間半かかる海の孤島ですが、近年はその美しい海岸と豊富な野生生物で観光客が増えています。

遠くから Palm Island を望む

遠くから Palm Island を望む

FMMのシスターたちは1945年以来、この島に住んでいて、そこの原住民たちの教育、社会的かつ司牧的な関わりを持っていますが、今回は1人のシスターがこの島に住む原住民たちの美しさ、苦しみ、そして切望に関して寄せられた記事でこの島の人々のことをお知らせしたいと思います。

3ヶ月前に私はパームアイランドにやってきて、最初に感じた事は「くつろげる場所」ということでした。今まで住んだ場所の中でいちばん美しい場所です。実際、昔ここにいたかのように感じました。熱帯地方の雰囲気には私が10年間ニューギニアにいたことを思い出させるものがありました。家の周りの庭で草取りをしていると、背丈の高い草の向こうに隠れている美しい羊歯が見えました。それは私たちの霊的な庭にとても似ているように思えました。私は庭で仕事をしている間に、祈り、この新しい環境に静かに入って、島の人々の神秘性に心を開いていけるように思えました。

私がここで今まで出会った人々は美しく、人なつこく、歓迎してくれます。ここではあらゆる種類の肌の色合い - 白から真っ黒、そしてその間の濃淡の色 - を見ることができます。子供たちは生き生きとしていて、誰からも愛されています。子供たちが防波堤の周りで遊んだり、泳いだり、島中を自由にぶらぶら歩き回っている馬に乗ったりしているのを見るのは楽しいです。彼らは生まれつき馬に乗るのが上手で、本当に母なる大地の子供です。それは、まるで天国のようで、夢にしか見られないもののようです。しかしながら、このすばらしい島には、大きな影があります。ここの原住民たちの心には深い傷があるのです。昔、この島は刑務所として使われていました。最初の原住民たちは40もの異なった部族から来ていて、共通の言語や文化を持っていません。

原住民の子供たち

原住民の子供たち

状態が改善されたのはこの30年くらいです。道路、家屋、学校、病院、若者のセンター、3,500人の地域社会の人々が必要なあらゆるものを建てるために、莫大なお金がつぎ込まれました。しかし、本当の必要性、これらの人々の深い痛みについては取り組まれていません。多分、ある人々は努力しようとしたでしょうが、誰もどうしてよいのかわからないのでしょう。パームアイランドの地域社会の代理として仕事をしている法律家のアンドゥリュー・ボウさんは、留置所での死亡に関する検死のことで次のように書いています。「思春期に無垢の人たちはすべて犯されてしまいます。荒廃した文化の結果は失望の中にはっきりみえます。若い人にはアルコール症で体を壊していく人たちもいます。若者の幻滅と自己破壊は明白です。

通りで出会う人々、店で見る大人たちはまるで何かを考え込んでいるかのように静かでむっつりしています。その「何か」とは多分タウンスヴィルで行なわれている訴訟事件かもしれません。さらに、それは彼らが過去において不正に取り扱われた歴史全体、オーストラリアにおける最も大きな原住民の地域社会が住んでいるこの島においてさえ、自分の土地や家を持つことができなかったという彼らの過去の歴史全体なのです。

私はこの島の住人と、教師や看護婦のように一時的にこの島に住んでいる人々の両方がしてくれた色々の話を聴きました。パームアイランドにおける状態は、20年前と比較すると遥かに良くなっていると言われました。私たちは病院、学校、商店や、役所、若者のためのセンターや住宅といった地域の施設のことについて話してきました。しかし、大きな問題が幾つも残されています。十分な住宅がないために、多くの大家族が一つの建物に一緒に暮らしているのです。人口の90パーセントがアルコール依存や暴力、児童虐待などの結果、職を失っていますし、アルコール症候群の子供たちは学校でも手がかかり、それはこの島の発展の邪魔になっています。

時々、状況は全く希望がないように感じます。仲良く楽しそうに遊んでいる子供たちを見るまでは…。そうです。老人が自分たちの文化について語るの見ていると、その顔は思い出に輝いています。或いは太陽が沈むのを静かに眺めて座っている人を見てご覧なさい。そこには命が、美が、未来があると私には信じられるのです。この人々は苦しみのうちに成長しているのです。

何年もの間、彼らは多くの屈辱にさいなまれてきました。自分たちの存在の基礎である土地は取上げられましたが、彼らはそれに耐えてきました。彼らは今も生き生きとしています。さらに彼らは私たち人類共同体に寄与するユニークなものを持っているのです。

この原住民たちは芸術家だと私は思います。彼らは空間(スペース)をより深い形で理解していて、私たちとは異なったレベルで物事を観ます。彼らは高い、鳥の観点から、或いはX光線のように見通すのです。彼らの美しい色彩とパターンの芸術、そのダンス、その音楽は彼らが大地とあらゆる被造物に結ばれていることを示しています。いろいろの立場にいる人々のことをもっと知るようになって、私たちはここで聖なる地面に足を置いているとより深く確信するようになりました。

ここの人たちは私たちが使うような論理を使いません。彼らはものが正しいか、間違っているかを「感じる」のです。そして、その表現は感触にあるのです。彼らが踊ったり、歌ったりするのを見るとき、あるいは祈ったり、遊んだりするのを見るとき、また、愛したり、関心を持ったりするのを見るとき、彼らの動作、表情による意思表示(ボディーランゲージ)、環境と共にある安らぎ、これらすべてがこの世界において存在の仕方が違うことを話しています。だから、彼らが理解されているとか受け入れられていると感じないのは驚くべきことではありませんか?また、若者たちが自分たちの可能性や才能にあった未来を提供しない世界に住むという不幸を体験しているのは驚くべきことではないでしょうか?彼らが身近にあるアルコールで言葉にならない悲しみをまぎらわし、暴力や欲求不満を爆発させたわけで、刑務所が第二の家のようになったのは不思議なことではないのではないでしょうか?

月曜日の夜には、4つの教会の人々が一緒に祈りるために集まります。彼らは自分たちの欲求不満を率直に、正直にはっきり話します。共に祈りながら、私たちの心は希望と、よりよい将来へのヴィジョンに高められます。美と愛と善があるところには命があるのです。そして、私たちは神が心の貧しい者と共にあり、何か新しいことをすでに始めてくださっていると知るのです。

私はここにほんの短い期間しかまだいませんし、何も解決はありませんが、彼らの痛みと絶望を「感じる」ことができます。あたかも私の心の中をそれが流れて、魂に触れるかのように感じることができるのです。私はこの美しい人々の創造的精神に触れ、この苦しみのしげる草の下の何処かに、愛が何かを起こさせ、すべてを新しくする不思議な庭が隠されているのを見付けだしたいと願っています。それには時間がかかることを知っていますし、それは今始まったに過ぎません。それは一つのチャレンジであり、そのこと自身の中にいのちを与えるものなのです。