マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

キリストとの出会い―チリ

私に深い影響を与えた出会いについて分かち合いたいと思います。私たちは軽々しく貧しい人々と共に生きると口にしますが、私はある日、貧しい人と出会い、その出会いによって、生き方を変えられる体験をしました。

 

 私は、メキシコで、他のシスターと一緒に生涯養成の時を過ごしていました。二人で養成コースに通っていましたが、ある日、途中で、ぼろをまとい、段ボールの中にうずくまっている先住民の老人を見かけました。

 私たちは、道行く大勢の人と同様、出会う人の顔を見ることも、挨拶することもなく、道を急いていました。しかし、なぜか、その老人の姿が気にかかり、一緒に通っているシスターと、次に来る時には、彼のために何かを持ってきてあげようと話していました。

その3日後、バチカンからの新聞に載った教皇フランシスコの言葉に心が留まりました。「もしキリストについて知りたいのなら、神学者に尋ねなさい。しかし、もしキリストに出会いたいのなら、道に出て、貧しい人々の中にキリストを探しなさい。この言葉が心に残り、道で見かけた先住民の老人の姿が思い浮かんできました。

 その日、出かける前に、聖堂に行き、祈り、イエスに話しました。「今まで、私は、聖堂や教会で、 神様と出会おうとしていました。そして、様々な時に、貧しい人々を助けてきました。でも今回は、ちょっと違うのです。どうしたら、あの貧しい老人の中に神様の現存を見ることができるのですか。私は、あの悪臭を放つ、汚らしい老人に、嫌悪感を感じているし、見るのもいやなのです。」そして、イエスに祈りました。「主よ、どうぞ私の限界を乗り越えられるように助けてください。そして、あの先住民の老人の中にいらっしゃるあなたと真に出会う恵みをお与えください。」

 コースに行く途中、驚いたことに、彼と出会ったのです。彼は起きていて、悪臭も放っていませんでした。心惹かれたのは、顔面一杯に広がる、彼の笑顔でした。名前を尋ねると、「アルトゥーロです。」と答えました。私はその笑顔に親しみを感じ、言葉を交わしましたが、もっと彼の内面に触れたいと思うようになりました。もうその時、彼を見る私の見方は以前とは違っていました。神が私の祈りを聞いてくださり、信仰をもって彼を見る恵みを与えてくださったのです。彼との出会いは次のようでした。最初、苗字と名前を持った一人の具体的な人として出会いが始まりました。そして、彼の生い立ちやこれまでの人生について知るようになりました。彼が私を信頼し、私が彼の過去の歴史に立ち入らせてくださったことをうれしく思っています。本当に感動しました。彼はホームレスになった理由や家族の問題について話してくれました。奥さんが亡くなった後、家賃が払えなくなり、親戚の家に身を寄せたが、そこも出なくてはならなくなり、誰にも迷惑をかけたくないので、道で住むことにしたということです。ビスケットを差し出すと、糖尿病だからと言って辞退しましたが、「ありがとうございます」と言って、私にお花をくれると約束してくれました。保育園でもらえるのだそうです。

 最初、私は彼に必要な物を与え、彼の傷を癒し、神に近づくことを助けてあげたいと思っていました。しかし、この孤独で見捨てられた83歳の老人は、家もなく一切れのパンにも事欠く状況ですが、一人の尊厳を持った人間として生きておられるのです。私は彼を助ける相手としてではなく、彼の人生に興味を持ち、一人の人間として語り合うようになりました。彼は、その悲惨な状況にもかかわらず、このような状況になったことを誰かのせいにすることもなく、淡々と生きているのです。私は彼に家を探そうと言いましたが、彼は私の気持ちに感謝しつつも、その申し入れを受け入れられない理由を次のように説明しました。「私はここで元気に暮らしています。ここが私に家です。ここで知り合いもいます。夜、自動車の見張りをする仕事をして、お金も少し稼いでいます。」

次の日、修道院に彼を招待しました。その日は、私に台所当番だったので、彼に暖かい食事を差し上げたいと思ったからです。彼はこの招待を受け入れてくれました。アルトゥーロは、美しい植木鉢の大きな植物を持って、到着しました。彼は、それを大きな箱に入れて綱で引っ張って来たのです。それは高齢の彼にとってはとてもたいへんなことだったでしょう。それに加えて、道端に捨ててあったという天使と十字架のついたお皿も、持ってきてくれました。彼は、私たちにプレゼントをすることができることを本当に喜んでいました。彼のその幸せを感じる心、そして寛大さを忘れることはできません。

 貧しいこの私の兄弟は、私が彼に与える以上のものを私に与えてくださいました。彼は私に何も願わす、かえって、笑顔をくださり、信頼して他の人々と連帯することを教えてくださいました。彼を食事に招き、テーブルに着くように勧めたとき、彼は心からの感謝を述べ、もう一つの食事の分かち合い方を教えてくれたのです。「ありがとうございます。でも、私は、道で一緒にいる3人の仲間のところに持って帰らせていただきたいのです。というのは、私たち人のうち誰かが食事を手に入れると、いつも3人で分かち合って食べているからです。」と。その時、アルトゥーロを通して、キリストが私の人生に新たな意味を与えてくださったことに気づきました。また、貧しい人々の中におられるキリストに気づかせてくださいという祈りが聞き入れられたばかりでなく、私たち二人の出会いの中にキリストがおられることに気づかされました。彼にとっては私を通して、そして私にとっては貧しい彼を通してキリストと出会うことができたのです。

 チリに帰る日が近づき、アルトゥーロにそれ以上のことをしてあげられないでいることが気にかかっていました。冬が近づいてきました。温まる毛布はあるのでしょうか。祈りのうちに彼を神に委ねてメキシコを離れようとしていました。ところが、チリに戻る数日前、私はカトリック大学に、学生たちの司牧活動を手伝うように招かれました。何と、180枚の毛布を必要な人々に配布すると言うのです!いくつかの老人ホームに毛布を配り、そしてアルトゥーロなどホームレスの人々にも配ることができました。

貧しい人々は、私たちの周りのどこにでもいます。そしてキリストは彼らの中におられ、私たちを待っておられます。キリストは、私たちが自分から外に出て、貧しい人々に出会うことを望んでおられます。キリスト自身が私たちの所に会いに来られ、そして、キリストの生きた神殿である貧しい人々の中にキリストの姿を見出すことができるからです。

 Brygida Koeppen, fmm