マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-22

日本の南と北で築かれた管区の堅固な基礎 

1910年から1911年にかけて実施された管区長の日本訪問は、管区創設期の最後を飾る貴重な体験を残し、新しく歩み始める管区に勇気を与えました.

熊本の地に根をおろしたカテキスタ事業 

1910年(明治43年)、札幌から熊本へ戻ったマドレヌパジ管区長は、コ-ル師が海外から寄付金を集めて購入した熊本と人吉の土地と建物、設備、資本金を本会へ譲渡する「寄付行為」の書類をコ-ル師から受け取っていました。クザン司教の認可のもとに作成された5ペ-ジにおよぶ書面には、資本金とその利子はカテキスタ(伝道士)事業のためにあること、そして、たとえ、将来会が他の事業を手放す時が来たとしても、「カテキスタの仕事だけは存続させるように」と書かれています。 

カテキスタを養成する場として、既に1906 (明治39) には管区が熊本と人吉と久留米の若い補助会員(アグレジェ)とその志願者(アスピラント)のために開いた要理学校がありましたが、1910年(明治43年)に、ご自分の死を予期していたコ-ル師がこれを制度化して「カテキスタ養成学校」とし、その責任を熊本修道院の院長に一任していました。2年の養成期間に、要理の勉強、カテキスタの召命に特有の諸徳を習得するための特別講話、補助的教科として国語、歴史、地理、算数、作文、裁縫、倫理、礼儀作法などの授業も行われていました。コ-ル師は、この学校で養成されたカテキスタに訪問と巡回の指示を与えながら、実践面の指導に当たりました。カテキスタの主な仕事は、秘跡を受ける前の準備、病人訪問、聖器具の手入れ、求道者の要理教育、受洗者と子どもたちの信仰教育で、毎日2人で出かけていました。カテキスタたちは、宣教の機会を得るためにできるだけ多くの人たちとかかわるように努め、巡回が長期にわたる時にはよく知っている家族の家に泊めていただくようにしていました。実際、キリシタン迫害の余波と他宗教や迷信が渦巻く社会に入っていくために服装を正し、手土産を用意する必要もあり、かなりの費用がかかりました。それで、コ-ル師はこの事業を経済的に援助するために、5,000フランの基金を遺産として残しました。この「美しく栄えある」カテキスタ事業を存続させていくために、コ-ル師は、将来本会がこの地を引き上げるようなことがあるとしてもその時はこの事業のために「300坪の土地と50畳の部屋を備えたカテキスタが住めるような家屋を教会に提供するように」と書き残しています。  

熊本の地に芽生えた待望のス-ル養成の「修練院」 

1911年(明治44年)13日、管区長の熊本滞在中、日本で初めての着衣式がコ-ル師によって行われ、管区に大きな実りをもたらしました。熊本修道院には創設当初から、主に長崎方面の信者の若い女性たちが仕事を求めて来ていましたが、なかには修道生活を望んできた人もいました。しかし、入会が認められるまでの道は非常に長く、険しいものでした。この日、入会の喜びを最初に手にした二人は、先ず1901 (明治34) にフランシスコ会第三会に入会し着衣を受けて、次に1907 (明治40) に私的誓願を立てて補助会員となり、この生活を10年間務めたのち、ようやくFMMの着衣を受け、正会員となる日を迎えたのです。とりわけ信者の再教育と本会の修道生活に召された若い補助会員と志願者の養成に情熱を注いでいたコ-ル師は、慈父のような眼差しでその成長を喜び、支えてきました。

コ-ル師は衰弱しきっていましたが、「愛する子」の着衣に終始喜びの色を浮かべながら、式を最後まで続けることができました。コロンブ院長が、「日本では191113日より日本人のス-ルを養成するために修練院が開かれています」とこの年に開かれる総会のレポ-トに書いているように、この日から、二人のあとに続いてス-ルの修練院で修練期をはじめる日本人の修練者が徐々に出てきました。 

日本の南と北で味わった異文化の体験 

 初代管区長マドレヌパジの最後の日本訪問は、この狭い日本でも北と南で文化の違いがあることを体験的に学ぶ機会となりました。 

その一つは日本の南と北の文化の違いによって引き起こされたシスタ-たちの苦い体験でした。それが表面化したのは熊本のコロンブ院長が管区長と一緒に札幌を訪問した時のことです。厳冬の札幌には熊本と違う生活様式がありますが、南の文化圏でしか生活したことのないコロンブ院長には北国の寒さを凌ぐのに必要な生活様式が理解できず、それを変更させて熊本と同じように生活させようとしました。この時は宣教地を広く回り豊富な宣教体験をもつ管区長が北の文化に深い理解をもち、北国に必要な生活習慣を取り入れその地方に相応しく生活出来るように配慮したのでした。宣教分野が広がるにつれて文化の違いから生じる新たな問題が浮き彫りにされています。熊本に滞在中、札幌と熊本の文化の違いを体験した札幌のグアダルペ院長は次のように書いています。 

「日本の北と南とでは何と大きな違いでしょう。それは何か月も生活してみなければわかりません。ベルリオーズ司教様は北海道のことを「新しい日本」と言われましたが、その通りだと思います。札幌の人々はヨーロッパの生活様式に既に慣れていました。それに比べてここでは礼儀も格式も本当に日本的です。先日、私は熊本市内へ出かけましたが、そことも全く違います。札幌の街は道路が広くて綺麗なので私のお気に入りです。」

もう一つの貴重な体験とは、管区長の熊本滞在中に思いがけなくも札幌からキノルド師とモ-リス師を熊本の共同体に迎えたことです。日本で初めてフランシスコ会の司祭を迎えた熊本の共同体はどれほど感動したことでしょう。司祭がたは教会や施設を見学するかたわら、共同体に霊的講話を与えました。久し振りに聞くフランシスコの兄弟たちの話に、フランシスコの娘たちはすっかり魅了されてしまいました。