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2001年12月号 No.340 2001.12.8
1 |
「平和の君」の誕生を思い、祈る |
宮下 良平神父 |
2 |
婦人部 秋 の 遠 足 |
松瀬 醇子 |
3 |
生活の中で他の宗教と関 わるために(要旨) |
チェレスティーノ・カヴァニヤ神父 |
「平和の君」の誕生を思い、祈る
宮下 良平神父
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子かわたしたち
に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、 『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる(イザ9:5)。」
教会は「主の降誕」夜半のミサで「ひとりのみどりご」、それは「平和の君」が生
まれたことをイザヤ書から全世界に語りかけます。
今日こそ、世界の人々は、復讐と戦争による殺し合いが消え去ることを願っていま
す。
テロが報復を呼び、報復がテロを呼び、憎しみと殺し合いの連鎖が終わることなく
続いてゆく。これが、悲しいかな世界の姿です。
日本のカトリック教会も、司教様たちを初めとして、この殺し合いの連鎖を断ち切
るためには、戦いが唯一の手段ではないことを機会あるごとに説いています。
しかし、唯一の神なる主を、神のひとり子キリストを信じる民が多くいる国や民族
であっても、その人々が目の前でテロによって殺された同胞を見るなら神の憐れみと
愛によりすがるより、増しみと復讐に身をゆだねてしまう人々がほとんどでしょう。
そして、私たちはある場面の映像や情報を丁∨などのマスコミから繰り返し伝えら
れながら、憎しみと復讐の正当性、そして再び起こることへの恐怖心を知らず知らず
のうちに増加させてゆくのではないでしようか。その心の傾きが個人を越えて普遍的
に広がりを見せてきている今、憎しみと復讐、恐怖心の犠牲になって死んでゆく人々、
土地と家を追われてさまよう人々も爆発的に増えているのは確かなことです。
そして、今日の私たち人類の心の傾きは、旧約において、神の民としてのイスラエ
ル人がエジプト脱出の際に何度となく神から言われた「頑(かたく)なな心」を思い
起こさざるを得ません。そして、この時代に生きる私たちは、益々頑なになってきて
いると言えます。
頑なな心に支配される人間は、神からの呼びかけを拒否し続け、神から離れたまま
の状態に甘んじている罪人として、たとえこの世的には「栄え」ていても、神の救い
の歴史からするなら、「滅び」へと向かって歩み続けざるを得ないと言えるのでしよ
う。
ヨハネ福音書3:16−20では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を
愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が
御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため
である。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子
の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光
よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、
その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」と述べていま
す。
さてそれでは、神はいつまで私たちを頑ななままにしておかれるのでしようか。私
たちの頑なな心はどうしたら解けるのでしようか。私たちの頑なさは、私たち自身の
悔い改めによって完全に消し去られるのでしょうか。
この問いに対しての答えは、頑なな心を持つ私たちに「わたしはお前たちに新しい
心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り
除き、肉の心を与える。(エゼ36:26)」と約束される神の言葉の中にしか見出せな
いでしよう。
そして、私たち人間に新しい霊を与え、石の心を取り除き、肉の心をイエスの十字
架を通して与えるために生まれたのが、神のひとり子キリスト・イエスであったので
す。
イエス・キリストの御降誕の日を待ち望む待降節において、私たちの頑なな心を取
り除き、すべてを赦す神の愛に委ねる心が、この地上に住む人々に行き渡りますよう
祈ろうではありませんか。特に、戦いの当事者となっている人々、テロと戦いの犠牲
になった人々の上に、戦いを傍観している私たちの上に。
パウロは語っています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する(申命32:35)』と主は言われる
(ロマ12:19)」と。
主の再臨を待ち望みながら、地上に一日も早く神の平和が訪れますように祈ります。
秋 の 遠 足
婦人部 松瀬 醇子
11月14田 穏やかな小春日和に恵まれた日、22名が5台の車に分かれて、教会を出発
しました。
まず最初は、今年8月に完成した町田教会へと車を走らせました。広い敷地に立つ
教会は、あちこちに杉の柱が使われたユニークな建物で、お聖堂では聖歌隊の清らか
な声と、木の香りの漂う中で、ミサがとり行われました。1958年に最初の聖堂が建て
られて以来、紆余曲折を経た後、今に至ったとの事でした。
町田で昼食をとった後、5台の車は約1時間かけて、相模原にあるプロテスタントの
詩人、八木重吉記念館へ向かいました。重吉の生家の蔵の中には、写真やノートが沢
山保存されていて、神を求め、本当に美しい物を追い求めた、重吉の心が伝わってき
ました。
ゆきなれた道の なつかしくて 耐えられぬように
わたしの祈りの道をつくりたい
八木 重吉
そこから車で15分程の所にある津久井湖で紅葉を眺め、地場の野菜を買って、家路に
着きました。暗いニュースが飛びかう昨今、日常から離れて過ごした束の間の、楽し
いひとときでした。
『生活の中で他の宗教と関 わるために』 多摩教会親睦研修会報告
恒例の多摩教会親睦研修会は今年も11月22日、23日にサンピア多摩に東京大司教区
事務総長チェレスティーノ・カヴァニヤ神父様をお迎えし『生活の中で他の宗教と関
わるために』とのテーマで22日夜と23日朝の2回にわたってお話をいただきました。
とくに22日夜は信徒約50人が出席、机を追加するほどでした。23日はお話の後、ごミ
サに与かりました。
以下はそのお話をメモからまとめたものです。
[22日夜]
私がどうして日本の宗教を勉強してきたか、般若心経と座禅を中心に話します。
1972〜75年、神学を勉強していましたがバチカン公会議の文書に他の宗教を排斥しな
い、どう考えるか真面目に考察するという文書がありました。
それはキリスト者は自分の信仰を持たねばならないが、教えは違うが素晴らしいも
のは否定しない.精神、道徳を認めることを勧告し、推進するというものでした。
1981年、公会議から16年後、初めてアジアの司教がマニラに集まりました。アジア
で他宗教との交わりを持ち、それを尊敬しそこから光と力を汲み取るとの趣旨でした。
公会議はヨーロッパ中心でしたが、アジアの司教は先祖の宝を大切に考え、キリスト
教を一方的に教えるのではなく周囲と対話するということで討論しました。
日本では近くの寺と仲良く、少しでも理解しなさいというのがミラノ会の考えでも
ありました。私は日本に行ったら日本の宗教を理解し、仏教、神道の言葉を借りた方
が分かってもらえるのではないかと思いました。
まず自分の教会を、と言われ3年間佐賀県で働いた後、日本に帰化したドイツ人神
父と、そして福井で座禅を学びました。足が痛くなります。しかし座っていると痛み
を超えて雑念がなくなり、心が透明になり神が何時もより近くなり神の静けさを体験
します。私は静けさを好きでしたが、座禅はそれだけではない。自分の心が開け、自
分が見える、悟りを得ることが出来る。私もそれを望みました。
そして1年のサバティカルを得て鎌倉で座禅をしました。まず午前4時から座る。6
時に朝食、7時半から座禅。30分座り10分散歩という日課が朝から夜まで続く。先生
と禅問答をします。段々自分の弱さ、自分は何でもないことが分かってくる。さらに
学びたくて駒沢大学で数年間過ごしました。そのときの先生は深く人を助け、憐れみ
の心を持った人でした。私は初めは学位を得るつもりでしたが、今は豊かな考えを得
るための趣味です。
20年前、イタリアの宣教会が日本の宗教との交流を呼び掛けました。キリストの祈
り、仏教の祈りを一緒にしました。
90年には天理教、91年には比叡山、92年は立正佼正会、伊勢神宮、神社本庁を訪れ
ました。良い出会い、勉強が出来ました。これらをすべて記録して自 分の会の文書に載せました。チェレスティーノは坊さんになるのではと思われたらし
いが、段々分かってもらえました。
神道は80万の神がいて話の分からないものでした。信じているのではなく神社に行っ
てお参りするだけ。神宮(伊勢)では、日本人は自然に不思議と神の力を感じている
と思いました。天理教にも感激しました。創立者の話は旧約聖書のアブラハムの話と
そっくり、神は私たちの親、すべての人の幸せを望んでいる、というもので天理教は
人のために活動している。
座禅とキリスト教はどこが違うか、同じか?キリスト教は言葉が多い祈り、口だけ
動くことになります。最初は言葉に注意しながら祈る、そして意味を味わう、さらに
全体のイメージを感ずる、そして自分が感じたことをすべて神に差し出して祈る。一
方、座禅は考えない、心を空にします。自分を主張すると神の恵みとぶつかり、恵み
が入ってきません。
[23日朝]
宣教師は他宗教を理解しなければなりません。交流が大切です。これによって信仰
で曖昧だったところ、忘れていたことを再発見できました。他宗教の独特の教えによっ
て宣教師の使命が強められました。とくに座禅では姿勢を正し、心を静めて座り、無
の状態となります。
般若心経はインドで生まれました。般若とはサンスクリットで知恵、wisdomの意味
です。宇宙を見極めているもの、深い憐れみのことです。菩薩は迷っている人間が少
しずつ悟るということです。
仏はまず一つは2500年前インドにいた歴史上の人物、仏陀で、次は大日如来、すな
わち宇宙の生命、イエスが全てを創造した神の子であるのと同様で、それを人格化し
たものです。
[注:このあと、神父様から般若心経のプリントを配布していただき、逐語解説して
くださいました。解説部分は別掲をお読みください]
般若心経は、物は皆空である、死なないと新しい生命は得られない、全てを悟った
とき苦しみは消え、心は自由となる、と教えています。そして心経の最後は、これは
呪(マントラ、真言)であり、偉大な悟り、比較できないもので真実であると説いて
います。仏教のなかで『主の祈り』と言ってもよいでしょう。そしてキリスト教も東
洋の教えを学んだ方がよいでしょう。
[注:さらに禅宗の画題のひとつ、牧童が牛を探し捕らえるまでを描いた「十牛図」
のプリントをいただき、牛を得ようとすることは、本来の自己を探し求める旅で、悟
りへの道程であることを教えていただきましたが、あまりに長くなるので省略します]
(文責:鈴木)
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