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2008年9月号 No.421  2008.9.20

十字架賞賛
加藤 豊 神父
多摩東青年会大島キャンプ
やどり
大島レポート 清水 優
私設・明窓学林・いしい児童図書館 石井 省三
中高生合宿に参加して 増島亮、小俣真菜、宿里春奈

三教会合同壮年交流会が開催された 石塚 時雄
十字架賞賛
                              加藤 豊 神父

 去る9月14日の日曜日、わたしたちは「十字架賞賛」の祝日をお祝いしました。キリストの十字架は人類に示された神の愛の決定的な表現だったわけですが、同時に当時のローマ帝国における残酷な死刑の道具でもありました。ですから、神の愛の「勝利」であるものが、人の眼には「敗北」の極みに映るというこのギャップのために、十字架の意味は信仰の延長線上に黙想されるのでなければ、一般にはなかなか理解されにくいのが現実ではないかと思います。
 かつて、元(モンゴル)がユーラシア大陸のほとんどを支配した時代、フビライ・ハンにはこの「十字架」というシンボルが不思議で仕方なかったといわれています。フビライには、死刑の道具が崇敬の対象として崇められるなど考えられないことだったのです。しかし、そんなフビライ・ハンとは対照的に、主の十字架の意味を深く理解し、その「しるし」を妥当に読み取った人たちがいます。それがこんにち「赤十字」の名で知られる人たちのルーツです。
 実をいうと、十字架は初めから教会のシンボルだったのかというと、そうではなく、「パンと魚」が教会のマークだったこともあります。しかし、今では、世界中何処へ行っても、十字架が掲げられている建物を見ると、「あっ、教会(堂)だ…」と、誰もがそう思うくらいに、今では当たり前に十字架は教会のマークとなっています。
 わたしたちの信仰の中心にあるものは、わたしたちのために死んで復活してくださった主イエスをとおして与えられる永遠の命と、それを信じる信条ですが、しかし、イエスの死は具体的には十字架の死であったことを忘れてはなりませんから、十字架は種々の場面で強調されるキーワードとなりました。カトリック信者は、いったい一生の間に何度、十字を切り、何度、十字架を心に刻むことでしょうか。
 さて、キリストの十字架を慎んで仰ぎ見ること(崇敬)を特に強調する日が設けられ、それが今でも続いていて、「十字架賞賛」として典礼暦年の祝日となっています。この日、十字架を仰ぎ見る現代のわたしたちは、そこにどのようなモチーフを付加して信仰生活の糧とするのでしょうか。
 よく、十字架について、こんな譬えが語られることがあります。「十字架の縦木は自分と神様との関係に譬えることが出来、横木は自分と隣人との関係に譬えることが出来る」と。
 確かに「横木の譬え」は的を得ており、わたしたちの信仰は本質的に「自分と神様だけの関係」では不充分です。そのことは「縦木」だけでは十字架にはならないのと同じで、従って、「自分と神様だけの関係」がどんなに親密であろうとも、それは「神への愛と隣人への愛」を一番重要な掟であるとおっしゃったイエスを主として信じる信仰とはなり得ないでしょう。だからこの「横木の譬え」は、信仰というものを個人的な問題(社会性を伴わない)として捕らえる危険性からわたしたちを助けてくれるものだと思います。しかし、その一方で、「縦木」がなければ、「横木」だけではやはり十字架にはならないのですが、その「縦木の譬え」に関して、わたしは少々、補足を加えたいのです。
 そもそも、わたしたちが「共同体」という言葉を使う時、それは広い意味ではもう既に亡くなられてこの世におられない方々をも含めた共同体(地上を旅する教会と天上の教会との関わり)であるはずです。そう考えるなら、十字架の横木が自分と隣人という空間的な広がりの譬えであるのに対し、縦木は「時間的な広がり」の譬えであるいう見方もできるのではないでしょうか。つまり、わたしが申し上げたいのは、十字架の縦木といえどもやはり個人的な救済観による信仰では十字架をかたちづくることができず、その意味で、縦木について「自分と神様だけの関係」の譬えとするのは、あまり妥当とはいえないのではないか、ということなのです。
 もし、わたしたちがそれぞれ主の十字架を仰ぐとき、そこに「共同体制」を意識できれば、それは幸いなことだと思います。なぜなら、そういう十字架崇敬は、きっと、わたしたちの信仰が自己実現に終止するものではなくて、神の国の実現を目指しているということを思い起こさせると思うからです。もちろん弱い人間であるわたしたちにとって、「わたし」はどうすれば救われるのか、が、最も気になることであり、その深刻さは軽視できないことです。しかし、神の国が完全に到来し、そのとき皆が救われるならば、そのときこそ本当に「わたし」も救われる。そういうものなのではないか、と思うのです。亡くなった人のために(あるいはその人たちと共に)祈る(縦木)、また、いま生きている隣人のために(あるいはその人たちと共に)祈る(横木)、という、そういう共同体的センスというのでしょうか、そんな気持ちで十字架崇敬をしたいものであります。わたしたちが縦木において過去から現在に連続していること、横木において世界中の兄弟姉妹と一致しようとしていること、その繋がりを広げようとしていること、つまりわたしたちの信仰が共同体制に基づいたものであることに留意して祈りたいものであります。そしてそれらが神への賛美を呼び覚ますときには文字どおり「十字架賞賛」となることでありましょう。


多摩東青年会大島キャンプ ー引率して考える事−

                              青年会世話役 やどり

 子供達(中学生くらいまでの)の引率は大変です。子供達が、遊びやイベントに集中できるように、いろいろな配慮が必要となるからです。持って行く物の準備、現地に着いてからのイベントの準備、タイムテーブルそったスケジュール管理など、とても忙しい!!!(これはこれでまた楽しいのですが)
 これが、青年達の引率となると全く達います。
 持ち物は、必要な物の他に、各教会のキャンプ等で余ってしまった物(調味料やお菓子など)を自主的に分担して持ってきます。タイムテーブル(それも絶妙な時間割)も現地に行ってあっという間に作成してしまいました。また、料理が得意な人は台所で、片付けが得意な人は掃除、音楽が得意な人はミサで伴奏など、各個人がそれぞれの得意分野を活かして活躍しています。さらに、この年の離れたベテラン青年?に気まで使ってくれているのか、大変な仕事は廻ってきません。
 必然的にベテラン青年は、次の日の海や山での遊びやBBQなどのイベントに集中出来るわけです・・・
んっ!!!あれ。まずい。これは引率で来ているはずが、完全に引率されているな。
 青年達の当たり前のように働く姿から、この大変な逆転現象に気づかされ、引率者の名にかけて、どうにか青年達の役に立たなくてはと思ったのですが、料理も片付けも決して得意ではなく、楽器もそこそこ程度、人より優れているのは、お酒を長い時間飲める事と、遊びに夢中になれる事ぐらい。どちらの長所?も、余り人の役に立つ事とは直結していない。
 う〜ん、どうしよう・・・やはり体を使って、何かしよう。食材を採って来る事が出来る人が一番エライ(役に立っている)っていうのは、昔(大昔)から決まっている。よし!明日、海で潜って魚を捕ろう!そしてBBQに1品付け加えよう。これで一発逆転だ。
 大島の海はとても美しく入り江には青や黄色の小さな魚や、おいしそうな魚(石鯛やクエいました)、そしてタコやエイまで目の前に泳いでいました・・・が、バラエティー番組のように、「魚!採ったドーッ」とはいかず、無念の大惨敗でした。(素潜り練習します)
 結果、BBQに魚が出る事はなく、私は青年達に引率されたまま、大島を後にする事となりました。
 それゆえに私自身は大島の青い空、青い海、雄大な三原山のもと童心(推定年齢11歳)に帰りこのキャンプを満喫し、各教会の青年達と親睦が深められた事を嬉しく思います。来年も、青年の活動にかかわれるのであれば、もう少し立派な引率者(世話役)として、かかわっていけるように、少しずつ努力をしていかなくては一一・。
 最後に、宿泊場所の提供のみならず、差し入れや自家用車を貸してくださった、大島教会の信徒の皆様、青年会というものが正式に認められていないにもかかわらず、様々な面で協力頂いた多摩教会の皆様並びに加藤神父様、同行してミサをささげて頂いたサレジオ会の浦田神父様、そして、ベテラン青年を引率してくれた多摩東の青年達に感謝。


大島レポート

                               清水 優

 7月31日夜から8月3日まで約4日間、多摩、調布、府中の青年で大島に行ってきました。多摩からは三人が参加、昨年から始まったこの合宿は今年で2回目です。私自身は初参加で、しかも私用のため8月2日からの途中参加させていただきました。滞在中、私たちは大島教会で宿泊場所を、さらには信徒さんから車、酒と合宿を有意義にするための様々なモノを提供していただき、まさに『おんぶにだっこ』でした。大島教会の方々のご協力のおかげで夜は最高の宴になりました。
 海も、山も、と自然あふれる大島で大島教会の方々の素晴らしい奉仕、そしておいしい酒と楽しい仲間に感謝します。大島合宿は来年度以降も続けて参りますので、今年は参加できなかった方、これから大学生になる方もぜひぜひ楽しみにしていてください。


私設・明窓学林・いしい児童図書館の仮オープンについて

                               石井 省三

 2007年10月号の本誌(多摩カトリックニユーズ)で紹介させていただいたとおり、子供のための図書館の設営に向けて、昨年春から、少しずつ準備を続けていますが、2007/6/27、開設準備スタートの日として、立ち上げて以来、1年目を期して、今夏6月27日に、不十分ながら、仮に開館しました。図書の記帳等の準備不十分のため、まだ貸し出しは出来ませんが、閲覧はできます。ちなみに、6月27日は明窓学林創立の記念日であり、由縁は、生母の命日であります。
 二階の教室を活用して、利用者(主に幼児〜児童生徒と、その保護者)のための出入り口用の階段の整備〔ステンレス製手すり工事、人工芝の貼り付け、掲示板等の修復、etc〕、障害者用出入口の階段昇降機の設置、閲覧室の書架・書棚の工作と取り付け工事などが、ほぼできあがりました。それらの施工に当たって一番注意している点は、子供達の安全です。
 たくさんの「良書」が、多くの方々の御賛意・御協力をいただき、増大充実しつつあります。本当にありがとうございました。皆様には、具体的な御協力をいただき心から感謝しています。これからもよろしくお願い致します。正確な数は未だ把握不十分ですが、4〜5000冊の蔵書が、新たに入ったと思います。当面、取り組んでいるのは、蔵書の整理とノートです。
 これからの運営テーマのひとつとして、「読み聞かせ」も考慮中です。その読み聞かせのボランティアについては、カトリック系大学の児童学科の学生たちの協力が得られそうです。とにかく、あわてず、いそがず、自己の身体状況から無理を避けつつ、ゆっくり歩んで行こうと思います。是非々々、今後とも、よろしくお願いいたします。


 中高生合宿に参加して

                                増島 亮
今年でキャンプには、二回目の参加になるんですけれど、今年は去年と比べて初めて参加した友達=初めて会った友達が多く、さらに「絆」が広がったような気がします。この輪をこれからも大切にしてゆきたいと思っているし、これからも広げてゆきたいと思っています。
このキャンプを通して学んだ事を日常生活にも生かしてゆきたいとも思っています。
最後に、このキャンプに携わったすべての人に感謝したいと思います。ありがとうございました。いつまでもこの行事を続けていって、たくさんの子供たちにたくさんの大切なことを、いつまでも教え続けていってほしいと思います。


                                小俣 真菜
今年は、多摩教会からの参加が少なくて、ちょっと心配でした。
でも、楽しく過ごせてよかったです。


                                宿里 春奈
 多摩東宣教協力体の中高生キャンプに参加したのは今年で二回目です。去年は初めての参加という事の心配が大きかったのですが、今年はまた違うメンバーとの合宿であり、多摩教会からの参加人数も少ないという面で不安もありました。が、その心配も杞憂におわり、キャンプの内容は私にとってとても充実した、忘れられないものとなりました。その理由はやはり予定自体が考えられていて充実していたのと、陰で支えてくれた多くの人の努力、苦労があったからだと思います。問題がない訳ではありませんでしたが、私はまたこのキャンプに行って沢山の事を学んで帰ってこれました。まず今年もこのキャンプに行けたという事が嬉しいです。
 怪我人が出なかった事、無事に帰ってこれた事、全員が楽しめた事、本当に全て素晴らしい事だと思います。それが多くの人の支え、祈りの上に成り立ったという事を忘れずに、そこでした貴重な経験を大切にしていきたいです。

三教会合同壮年交流套が開催された

                                 石塚 時雄

 毎週の「ミサのお知らせ』に「7月18日(金)の夜、調布教会にて『三教会壮年合同懇親会』が開催されます」との案内があったので、恐る恐る参加してみました。
 三教会の「壮年違」が一堂に会したら、あの広い信徒館も人であふれるだろうと予想して行ったら、中にいた人は22名(私を含めて)だけ。それでまず余分な机といすを片づけて、20教名分の四角に囲んで机に並び直す作業から始まった。配膳台を見ると、酒類のビンが並んでいる。貴重な銘柄の清酒・焼酎ばかり!“ハハァ〜ン、5日前の献堂式に寄贈され、敵堂式パーティで飲み切れなかったものだな。これはラッキー!”と思った。料理が盛られたプレートが並ぶ。腹の空いていた私が思わずグーと来るような料理が並ぶ。それで、この見事な料理を食べてしまう前に写真に収めた(下段左に掲載)。今日の料理を短時間で作り上げた“コック長”は濃畑さん(府中教会)でした。
 会が始まり、おいしい料理と酒を味わうとみんなが話出す。この会を招集した横山調布教会委員長の話を皮切りに、順番に皆が話をした。自己紹介ポイ話をすると、別な人が“私も同じ土地の身です!”“私も同じ高校卒業です!”と叫ぶ。そして固い握手を交わす。こんな調子だから次の人に話がなかなか進まない。藤川神父(調布教会)、マウリツィオ神父(府中教会)はお人柄を飾らずに話す。実になごむ話ばかりでとても楽しかった!
 この辺で私は焼酎でいい気分におちいってしまいましたが、吉田(多摩)、富山(府中)、横山(府中)の三巨頭(委員長)は親しげだが、やはりご立場から真剣に三人で何か相談している。私はそこを割り込んで三人を写真に撮らせていただいた(下段右に掲載)。やはり委員長の責任は重大なのだ…と感じられた。当然のことですが…
 今まで数回、「三教会」壮年交流会が聞かれました。しかし府中教会の呼びかけに多摩教会から数名参加してきただけで調布教会からの参加者は皆無でした。だから今回は三教会からそれぞれ参加した初回の「三教会合同壮年交流会」なのです。これからも三教会の委員長の協力によりこの会が随時開催されると良いナと思いました。(会費は1千円でした)

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