2008年6月号 No.418 2008.6.21
1 | 「真の自己愛」 |
加藤 豊 神父 |
2 | 寺西師の金祝 |
加藤 泰彦 |
3 | 堅信を受けて | 金子 彩乃 |
4 | 合同堅信式に参列して | 下津 秀則 |
5 | マリア像完成までの出来事 | 石塚 時雄 |
「真の自己愛」
加藤 豊 神父教会は今月28日から来年6月29日までを特別聖年「パウロの年」として祝います。今年は(一説には)パウロ生誕2000年の年に当たるからです。しかし昨今、「だから何だ」といったムードが漂ってしまう現状もあって、スタートを前にやや盛り上がりに欠けている感があります。それはひょっとしたらわたしたちがあまりにもパウロから遠ざかってしまっているからで、いきなり「パウロの年」だといわれても、具体的に「なにがどうなるのか」、「なにをどうすればよいのか」が、ほとんど見えてこないからではないでしょうか。
もっともその気になれば色々な企画を企てることができるはずなのです。ただし、そのような「その気」になるためには、やはり普段から新約聖書のパウロの書簡に親しんでいる必要があるでしょうし、そういう背景がなければ、いきなり「パウロの年」だといわれても、「だから何だ」という雰囲気のまま一年経ってしまうのではないか、と思うのです。
どうもわたしたちカトリック信者の間では、パウロは大概ペトロとシンメトリックに扱われてしまい、その書簡はミサで朗読されてはいるが、毎回わたしたちを上滑りしてしまっているような気がします。たまたまパウロだけが独自にクローズアップされるような機会(祝日、祭日)があっても、「聖パウロの取り次ぎを求めて祈りましょう」といった具合に、「崇敬」が強調されるばかりで、「皆でパウロの書簡を読んで分かち合いましょう」というふうには、なかなかなりません。
さて、その使徒パウロですが、わたしたちは『使徒言行録』や先述した彼の書簡から、使徒としての活動を知ることができますが、そこからまた彼の人柄や、彼の過去、彼の心の痛みなどに触れることができます。そこにはいまのわたしたちが置かれている状況、特に若い世代が悩み苦しんでいる状況を打開するためのヒントが多分に含まれていると思います。
先日、秋葉原で凶悪な通り魔事件がありました。犯人は「人生に疲れたから」と供述しており、不条理極まりない犯行理由ですが、「人生に疲れた」というのは、正確には「自分の人生に疲れた」という意味らしく、それはつまりありのままの自分を自分で愛せなかった、ということなのでしょうか。容姿を気にしたり、友達が出来ないこと(自分の不器用さ)を嘆いたり、そのような「自分」に納得していない、ということなのでしょうか。わかりません。
自分を愛せない人間が他人を害してしまうことを「自傷他害」といいますが、自己愛の欠如が果ては無差別殺人にまで拡大してしまうとしたら、わたしたちはそのことじたいにも恐怖せずにはいられません。たとえば、「あと3センチ背が高ければ」とか、「あと30パーセント給料がアップすれば」とか、理想の自分(かくありたい自分)を愛するがあまり、「ありのままの(原寸大の)自分」を自分で認めることができなくなってしまうことがあります。そうなると他人を愛することのほうがまだ易しい(ここでは「愛する」というより、その実「羨む」といったほうがいいでしょう)。しかし、イエスははっきりとおっしゃいました。「隣人を自分のように愛しなさい」と(マタイ22:39)。この「自分のように」というところは大切なポイントだと思います。「真の隣人愛」(共感)とは、「真の自己愛」(主体性)という土台なしにはありえないでしょうから。実際、単なる「わがまま」と「真の自己愛」とは正反対のもので、心から「自分を愛すること」は、とても難しいことで、わたしたちの生涯の課題となるものでありましょう。
わたし自身も若い頃はいわゆるコンプレックスの固まりで、自分を愛することが充分には出来ていなかったろうと思います。それでも「神様がわたしを『それでいい』としてくださる」ということを信じていましたし、幸い仲間にも恵まれていました。ですから、増々、自分を苦しめてしまうような想いにわざわざ自分から嵌り込むようなことはありませんでした。それでもやはり「神の正しい裁き」以上に「かくありたい自分」というものに左右され、自分が惨めに思えてしまうことがありました。
ところで、パウロもまたかつてイエスと出会う以前は、自分で自分を愛せない人でした。ちなみに当時、彼は備えるべきものをすべて備え持ったエリートだったので、彼の場合、「社会への恨み」に類する心理はほとんどなかったといっていいでしょう。しかし、それでも彼の心は空しいばかりで満たされることはありませんでした。どれほどの自己実現に成功しようとも肝心な部分が欠けたままだったのです。その「肝心な部分」こそ「真の自己愛」ではないでしょうか。
「かくありたい自分」と「原寸大の自分」との間に起こる葛藤からでしょうか、現代人の悲劇のひとつは多かれ少なかれ「自分で自分を愛せないこと」なのだと思います。きっと現代のわたしたちがパウロの胸のうちを聞くときには、古代あるいは中世の人たちのそれとはかなり違った独特な響きが加わるはずです。
「真の自己愛」を抱けなかったパウロは、はじめのうちキリスト信者の迫害に加担することで、ある達成感を得ようとしていました。自分を愛せない時、人は他人を害してしまうという、まさにその典型的なパターンです。しかし、彼には決定的に回心が生じます。イエスとの出会いがあったのです。彼の価値観は大きく変化します。それゆえ彼の自己評価にも大きな変化が生じます。そうやって彼は救われるのですが、その体験を『使徒言行録』では「目から鱗のようなものが落ちた」と表現しています(9:18)。
この一年間、わたしたちはどのようなかたちであれ、パウロの信仰をあらためて見つめ直し、イエスに救われた証人であるパウロにより近付く機会をあらためて設けるようにしたいものです。
寺西師の金祝
加藤 泰彦多摩教会の初代主任司祭、寺西神父様の叙階50周年(金祝)を祝うミサならびに祝賀会が6月15日(日)に行われました。1972年から13年間にわたり、まさに多摩教会の誕生にかかわられた方です。
この恩人の金祝に、多摩教会らしいお祝いが何かできないものかと考えた挙句、ミサ後に寺西師の50年の司祭生活のいくつかの出来事についてのインタビューを盛り込みました。一人の司祭の50年は単に司祭個人の50年ではなく、彼がかかわった小教区、学校、グループの50年であり、彼を通してなされる大いなる業をこそ私たちは知らなければならないと思ったからです。
金祝ミサの説教の中で寺西師は「司祭という存在はすばらしい、それは彼を通して大いなる業が現されるからだ」という趣旨のことを話されました。まさにその通りだなという思いで聞いていました。
ミサ後のインタビューの中でとても印象深かったのは、ご自身の召命についてでした。戦後まだ間もない頃、ある日、教会で共に活動していた友人から、「僕は神学校に行くことに決めた」と聞かされ、今までご自分では一度も考えてみなかった司祭になるということを、「そういう道もあったのか」と突然目を開かれるように決断した。このエピソードは浜辺で網を打っていたペトロに、いきなりイエスが「私について来なさい」といわれると、すぐに網を捨てて彼に従ったという場面と私の中でダブります。また、神学校に行くという意思を主任司祭に報告したときに、「いつ来るかなと待っていたよ」と言われた、ということもすでに彼を通して、大いなる業が行われていたのだなと思わせるものでした。
当日、記念に配られた寺西神父様の小冊子「私が出会った司祭たち」の締めくくりで、ご自身の司祭生活を振り返り、「多くの人々との出会いや出来事を通して、たしかにいえることがある。神の国は来ている」と述べられていますが、この宣言はまさに50年の司祭生活そのものを表現したものだと思います。
あらためて教会の本質を考えさせられる一日でした。私たちは「信仰宣言」の中で毎日曜日、「一、聖、公、使徒継承の教会を信じます」と宣言します。この「使徒継承の教会」とはまさに私たちが関わり、その出会いの中で生まれる出来事を通して受け継がれていく教会との意味です。当日ここに集まり50周年を祝う私たちは、「神の国は来ている」という寺西師の宣言に直接接した証人として、またこの出来事を伝えていければと思っています。Magnificat anima mea Dominum わたしの魂は主をあがめます
Quia fecit mihi magna, qui potens est: 力ある方、神聖な名を持つ方が
et sanctum nomen eius. わたしに大いなる業をなさったのです
堅信を受けて
金子 彩乃私は堅信を受ける前、堅信は受けなければならないものだと、ずっと思っていました。
しかし、勉強会で堅信に対するイメージが少しずつ変わりました。堅信が、一人前のカトリック信者になる為のものだというのは、私が思っていたのと少し違い、意外でした。
堅信の日、司教様に油を塗って頂いた時、私は今までなかったやる気が溢れてくるように感じました。加藤神父様が勉強会で「堅信は新しいことを始める良いきっかけになる。」とおっしゃっていましたが、確かに堅信を受けた今なら、何にでも挑戦できそうな気がします。
これから、一人前のカトリック信者として、キリスト教に対する理解を深められるよう頑張りたいです。
天国の祖父も、きっと見守ってくれていると思います。
合同堅信式に参列して
ヨセフ 下津 秀則2008年5月11日。聖霊降臨の祭日に、午後2時より東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区合同堅信式が行われた。岡田大司教の主司式の元、約200名の受堅者が参列し、厳粛な雰囲気で、堅信式が始まった。
ミサの中で、第1朗読、第2朗読、福音朗読に引き続き、堅信の儀が執り行なわれた。
堅信の儀は、洗礼の約束の更新、按手、聖別の祈り、聖香油の塗油、共同祈願の順で行われ、特にクライマックスである聖香油の塗油は、2人の司教によって、受堅者が一人ずつ代父母と前に出て行われた。受堅者は司教の前に立ち、代父母は受堅者の後ろに立ち、受堅者の肩に右手を置いた。司教は、塗油をされたあと、受堅者と平和のあいさつを交わし、受堅者は記念のカードを受け取り、自席に戻った。
今回、多摩教会から8人の受堅者が参列し、その中で中学生は、高橋、宿里、小俣、金子、手塚、下津 (敬称略)の6人で、大人が高尾、金澤の2人であった。
合同堅信式の後、外に出て、大聖堂の前で司教、司祭団と受堅者全員が並び、記念撮影をした。
堅信には、「すでに洗礼を受けた者が、一定期間の信仰生活を送ったあとで、自らの信仰を確かなものとして宣言する。」という意味があるという。
受堅者は、この合同堅信式を通じて、カトリック教徒としての自覚を新たにしたものと思われる。
神に感謝
マリア像完成までの出来事
石塚 時雄私は「マリア像設置プロジェクトチーム」の一員でした。マリア像が完成するまでの印象的だった出来事をここに書いてみます。
さらに「マリア像ガーデニングチーム」が澤江さん中心に結成されマリア像の周囲は美しい草花で飾られています。6月15日(寺西神父金祝祝賀会の日)にはマリアさまの足元の台座に新たにプレートが加わりました。その銘文はこんな文言です。
(1)元旦ミサ後のお知らせ
プロジェクトチームでは「聖母子像(上智の聖母)」を選定したが、正直なところ、はたして皆様に受け入れられるか心配でした。そこで、大きな発泡スチロール板で高さ150cm、等身大のマリア像を作り、これを1月1日・元旦ミサ後のお知らせで皆様に見ていただきました。皆から思わず歓声が上がり、拍手を受けました。この拍手にはびっくりしました。何人もの年配の女性の方から、ぜひともマリア像を実現してくださいと頼まれました。うれしかったです。
(2)聖母像の制作・搬入
2月10日信徒総会を終えてすぐ長崎の中田ザビエル工房に聖母像の正式発注をしたら、その時点で、中田ザビエル工房には御像の注文が6件来ていて、多摩教会の分が完成するのはずっと先になると言われてしまった。そこをぜひとも復活祭までに完成搬送してほしいと頼み込みました。マリア像の代金(642,800円)を先に振り込みました。結局、注文日から37日後、聖木曜日の前日にマリア像が長崎から運搬されてきました。到着したとの加藤神父様から連絡がありホッとしました。
(3)マリア像をはじめて披露
復活の主日(3月23日)のミサ後、私はトレーにマリア像を乗せ、聖堂最前列前に運んだ。皆、初めて見るマリア像を見つめた。マリアさまからの言葉『私共親子はこのたびこの見知らぬ聖ヶ丘の地に来ました。どうか末永くよろしく』と皆に伝えました。いっぱい拍手が起こりました。
(4)高さを決めて台座設置工事
3月23日午後、プロジェクトチームの全員でマリア像を設置する位置と高さを決めた。特に高さがとても重要なので、50kgの御像を抱きかかえて“高すぎる”“いや、それでは低すぎる”とやりながら地上20cmの高さに決めました。
台座設置工事は、望月徳夫一級建築士の設計した図面通りに3月27日,29日、4月5日に行われ、プロジェクトチーム員が交替で立ち会った。明進建設工業鰍フ社長と職人1人で工事をやったが、その職人のウデは手際上手で感心しました。台座設置工事の費用は186,280円でした。
(5)マリア像の祝別と奉祝ミサ
こうしてマリア像は完成し、4月20日(日)除幕・祝別、5月31日(土)奉祝ミサが行われました。
聖母ご訪問の日に ここ聖ヶ丘地に 2008年5月31日マリアさまのお顔は実に美しい。こんな美しいマリアさまが、ここ聖ヶ丘に地に来てくれたことが本当に素晴らしいことだと感じます。万歳!万歳!