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2004年7月号 No.371  2004.7.10

1 「善さ」の発見と神の国 加藤 豊神父
2 多摩東宣教協力体合同ミサ 岩藤 大和
3 典礼聖歌 吉田 雨衣夫

   「善さ」の発見と神の国
                                  加藤 豊神父

 「一長一短」という言葉を聞くことがあります。そして、聴く度に「本当にそうだなぁ」と思うことがあります。たとえば柔軟であるとか、誰に対しても理解があるとか、それらは紛れもなく長所といえるものでしょう。
 しかし一方で、そのような人の性格を優柔不断と言い換えて、たちまち短所としてしまう評価がもしできてしまうなら、長所と短所とは、その人の基本的な性格のうちに混在している、ということになります。
 「反応が速い」というと聞こえがいいですが、それを「気が短い」と言い換えればたちまち短所として認識されますし、また、「まじめな人」というと聞こえがいいですが、それを「堅い人」と言い換えると、なにやら評価が下がってしまったような気がします。
 人間各自の基本的な性格は、それが長所とされたり、短所とされたり、時と場合を違えては、受け取られ方が実に様々です。
 ということは、長所ともなり短所ともなるその人の性格的特徴は、周囲の人が善意によって解釈すれば長所、悪意によって解釈すれば短所となってしまう相対的な評価であることは明らかで、こうした事実を「一長一短」として締めくくることもできましょう。
 但し、相対的な事実であっても、それを受け取る側のわたしたちには自由というものがあります。「地には善意の人に平和あれ」と歌われているように(典礼聖歌203「栄光の賛歌」ミサ曲1)、善意は「善」の前提となるものであろうと思います。善意は人間関係において常に相手の「善さ」を発見しようとするものであり、また、この世界の「善さ」を常に発見しようとするものであり、過去の悲しい出来事を希望の未来に変容させて行く力であり、そのような変容のうちに、善意を抱くみずからもまた変容させられて行くのかもしれません。
 わたしたちの日常生活の中で起きる身の周りの種々の厳しい現実、「そんなところに善さなどあるものか」と叫びたくなる時があります。しかし、世界はきっと、わたしたちが見えている姿だけがすべてではないでしょう(わたしたちの意識そのものが相対的なのですから)。
 「神の国は秘められた現実」であるといわれます。地上のどこかにある楽園、それを見いだすのは、ひょっとしたら、わたしたちの善意、何事につけても、そこに「善さ」を見いだそうとする善意の活用なのかもしれません。


多摩東宣教協力体合同ミサ 「私達の新しい一歩」に参加して

                                   岩藤 大和
 小数区再構成が2002年6月に発表されから、丁度2年。調布・府中・多摩の3教会初めての合同ミサが6月20日午後2時から、調布サレジオ修道院ドンボスコホールで行なわれた。
 「私達の新しい一歩」と銘打ったミサは、岡田大司教様と4人の司祭(小坂師/調布・パスカーレ師/府中・加藤師/多摩・佐久間師)で行なわれ、また3名の方が大司教様から、堅信の秘跡を受けた。ミサ説教の冒頭大司教様は、「多摩東宜教協力体のはじめてのミサを皆さんと一緒にお捧げすることを大変嬉しく、特に若い方が随分いらっしゃるので頼もしく思います。」と挨拶された。
 ホールに準備した500席は、3教会と修道会関係者でほぼ埋め尽くされ、聖歌はキーボード(調布・吉川さん)とバンド(グローリーピー・府中)の演奏で、若さと活気に満ちた歌声になり、ホールに溢れ出た。
 ミサの後、懇親会が加藤師司会で各教会、修道会の紹介などが行なわれ、和やかな雰囲気のうちに午後4時半過ぎに無事閉会した。会場の片付けが終わって、ふと一昨年発表された「福音的使命に生きる・新しい一歩のための提案・」を思い出し、その時の不安と模索は完全に過去となり、また新しい着実な一歩を踏んだ実感を噛みしめた。


Sing Along  No.2
      典礼聖歌

                                    吉田 雨衣夫
 典礼の中で聖歌(音楽)はとても大事な役割を持っています。
 第一に私達の主を賛美する。第二には会衆が心を一つにして祈る。第三に典礼の進行を陰で支える。第四に典礼を美しくする、などです。
 聖書にも「楽器とコーラスで主を賛めよ」とあります。
 典礼聖歌は司祭との応答でもあります。ですから司祭の司式のリズムとテムポに合わせて歌われなければなりません。
 私達の教会で歌われる典礼聖歌はなんとも間延びした重苦しいものに聞こえます。多分、これは印刷された歌詞を一字一字追いかけながら歌うためでしょう。
 これはおそらく日本語の音の問題も影響しいているのでしょう。現在の日本語はローマ字で書かれた五十音表を見るとよく分かるのですが、一つ一つの音にすべて母音がついています。ですから印刷された歌詞を追いかけると一字一字を発音するような事になってしまいます。なかなか一つの単語、一つの句、一つの節にならないのです。これが間延びした重苦しい典礼聖歌の原因の一つなのです。今一つの原因は会衆が司式司祭のリズムや前奏のオルガンのテムポに無関心なことです。例えば「・・・・私達も賛美の歌を歌います。」〜聖なるかな-----と歌い出されても会衆は関係なく一字一字を発音してしまいます。そこでミサの進行の連続性が途切れてしまいます。
 ですから歌詞の内容を理解して、普段おしゃべりをするように歌えればとても素晴らしい典礼が実現するはずです。
 最近の「カラオケ屋」さんにはお客の歌を採点するシステムを入れている所がありますが、あのシステムをみると声の善し悪しや歌の上手下手よりもどれ位伴奏のカラオケのテムポに合っているか、の方が採点に影響するようです。
 古い信者の方はラテン語の聖歌を歌われた経験をお持ちでしょう。ラテン語の場合は日本語のように一字一字を発音するという事が出来ません。つまり、子音と母音が別々になっています。あの要領で歌えば自然な日本語になる筈です。「さあっ、歌うぞ。」と構えずに、普通に話すように歌えば良いのです。
 聖歌は速めに朗読はゆっくりと。これがコツなのです。

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